「陛下」
昼食を終えて執務室に戻る途中、後ろから肩を捕まれてユーリは足を止めた。
もちろん、そんなことをできるのはすぐ後ろをついて歩く護衛しかいない。
今日は会議や謁見の予定はなく、午後からも執務室に監禁予定のはずなのに。
「陛下って呼ぶなよ、名付け……」
何か忘れているだろうかと振り向きながら首を傾げると、おもむろに額に手を当てられて言葉が途切れた。
「ん……」
ぴたりとくっついた冷たい指が、少しずつ体温を奪い取っていく。その心地よい感覚に身を任せて、 ユーリはゆっくりと目を伏せた。
しばらく互いに無言のまま。やがてゆっくりと離れていく手を残念と思ったユーリの心を読みとるかのように、今度は二つの手が両方の頬を包み込んだ。
「少し、熱があるでしょう?」
「え、そう?」
心配そうに眉根を寄せる間近の顔を見返して、瞬きを数度。ユーリ自身には自覚がない。
けれど、尋ねた方は既に結論が出ているらしく、コツリと額がくっつけられた。
「今朝気づくべきでした、すみません」
「いや、ふつう気づかないでしょ」
「体がだるかったりしませんか?」
「少し。でも、昨日、夜更かししたせいかと思った」
昨日、スタツアをしてきた。久しぶりの再会に喜び、愛娘と自称婚約者と三人でつい夜更かしをしてしまったのだ。
「咳は出てませんね。鼻も平気かな。喉が痛かったりはしない?」
「あーあーあー。ちょっと、変?」
そう言われてみればと、声を出してみる。今朝から感じていた喉の違和感の正体が、昨夜しゃべりすぎたせいではないことに、ようやく気がついた。
たぶん風邪のひきはじめ。熱は微熱といったところか。
「スタツアのせいかな」
「そうかもしれません。眞王陛下にももう少し考えていただきたいものですね」
水たまりから噴水へ。まだ氷が張ってはいないとはいえ、そうなるのも時間の問題と言えるぐらいの季節だ。
すぐに温かい風呂場へ連行されたが、どうやら間に合わなかったらしい。
「でも、まだ大したことないしさ、大丈夫だよ」
朝から一緒に仕事をしていたグウェンダルにも、ギュンターにも気づかれることはなかった。それどころか、ユーリ自身さえ、気づかなかった程度だ。
大したことはない。
どちらかといえば、今は自身の体調よりも、いつまでもくっついたままの額の方が気にかかる。
「そんなことを言って、悪化したらどうするんですか」
「わ、わかったから。ちょっと離れて」
言葉を発する度に互いの息がかかるほど近い距離が居心地が悪く、ユーリが身じろいだ。
触れ合った場所から、熱が広がっていくような。
「どうして?」
「どうしてって、あんた……」
昨日スタツアをしてきたばかり。その昨日は禄に会話ができなかった。
つまり、数ヶ月ぶりに恋人を間近に感じて、落ち着けるわけがない。
「ユーリ、顔が赤いですよ。熱が上がってきたんじゃ」
「そうじゃなくて」
両肩に手をおいてみるけれど、緊張で力が入らない。弱い力で押したところで、状況が変わるはずもなく、そんなユーリをただただコンラートは見つめるばかりだ。
「部屋に、戻りましょうか」
執務室でたくさんの書類と共に、ギュンターやグウェンダルが待っている。
抗議の声をあげようものならば解放されることはないのだろう。
「うん」
観念するようにすべてを飲み込んで、額を合わせたまま小さく頷いたユーリは、ようやく解放されたことに安堵の息を吐いた。
「では行きましょう」
「えっ?」
解放もつかの間、ユーリの体が再びコンラートに捕まり、浮き上がる。
「いや、重病人じゃないんだから、自分で歩けるし」
「静かに。病人らしくして」
ツカツカと足早に歩き出されてしまっては、落とされぬようにとしがみつくしかない。
こんな恥ずかしい姿を見られたくないというユーリの願いは空しく、通りかかった侍女にコンラートの方から近づいて行く。
執務室への体調不良による午後の執務は取りやめる旨と、ギーゼラへの診察の依頼を告げたコンラートは、再び歩き出しながらユーリの耳元へと唇を寄せた。
「昨日、グレタとヴォルフラムに奪われてしまいましたからね。今日一日は俺にください」
心配が半分。残りの半分は、ただの独占欲であることを告げられてしまえば、いくらユーリでも先ほど長々と額を触れ合わせていたのがわざとであったことに気づかないわけがない。
今なら誰が見ても分かるほどに赤くなっているだろう顔を自覚し、せいぜい病人らしく見えるようにとユーリはコンラートの肩に顔を埋めた。